1988年4月の思い出:オクト株式会社新卒入社2024/11/07 22:24

19884月、私はオクト株式会社に新卒として入社しました。当時はバブル景気の真っ只中で、経済全体が活気に満ち溢れていました。入社後の研修を終え、新宿支店に配属され、温泉付きリゾートマンション「リーヴル石和」の販売を担当することになりました。


リーヴル石和の販売

リーヴル石和は、山梨県石和町川中島に位置し、価格帯は2500万円台から2700万円台でした。19886月に完成し、現地事務所には当番制で定期的に東京から車で通い、待機していました。バブル景気の影響で不動産市場は活況を呈していましたが、山梨県という都心から離れた場所での販売は、都内のように簡単にはいきませんでした。


リニアモーターカーへの期待

当時、リニアモーターカーの実験線が1997年頃に完成し、その後本線となり山梨県に駅ができるという計画がありました。この計画により、将来的な値上がりが期待されていました。1988年当時は、その期待に胸を膨らませていました。


リゾート法と7兆円産業の期待

1987年には、総合保養地域整備法、通称「リゾート法」が制定されました。この法律は、リゾート産業の振興と国民経済の均衡的発展を促進するために、多様な余暇活動が楽しめる場を整備することを目的としていました。リゾート法の施行により、地方のリゾート開発が活発化し、税制上の優遇措置や政府系金融機関からの低利融資が行われました。この結果、リゾート産業は7兆円規模の産業になると期待されていましたが、実際にはその期待に応えることはできず、失敗に終わりました。


36年後の現状

あれから36年の月日が流れ、ようやくリニア中央新幹線の開通の目途が立ってきました。しかし、当時の期待とは裏腹に、現在の中古流通価格は500万円から600万円程度に低迷しています。長い年月を経て、当時の期待と現実のギャップを感じずにはいられません。


このように、1988年の思い出と現在の状況を振り返ると、時代の移り変わりとともに変わっていく不動産市場の現実を実感します。



魅力的な投資物件:さいたま市西区指扇の木造アパート2024/11/06 11:34

所在地: さいたま市西区指扇2259-1
築年数: 1988年5月
敷地面積: 155㎡
延床面積: 138.98㎡
戸数: 1LDK×4戸
年間見込賃料: 2,568,000円
利回り: 7.37%

物件情報:https://www.cloverp.jp/?act=bukken&id=66

この魅力的な木造アパートは、さいたま市西区指扇に位置し、安定した収益を見込める優れた投資物件です。1988年に建築されたこのアパートは、長年にわたりしっかりと管理されており、安心して投資いただけます。

物件の特徴

  • 優れた立地: 交通アクセスが良好で、周辺には生活に便利な施設が充実しています。
  • 広々とした敷地: 敷地面積は155㎡、延床面積は138.98㎡と十分な広さを誇ります。
  • 安定した収益: 年間見込賃料は2,568,000円、利回りは7.37%と高い収益性を誇ります。
  • 管理の行き届いた物件: 長年にわたり丁寧に管理されており、安心してご購入いただけます。
  • 魅力的な間取り: 1LDK×4戸の間取りで、入居者にとっても魅力的な住環境を提供します。

この機会に、安定した収益を見込める優れた投資物件を手に入れてみませんか?詳細情報については、お気軽にお問い合わせください。

永代通りの歴史と「倒産通り」と呼ばれた所以2024/11/05 13:06

永代通りは、東京都千代田区の皇居・大手門前から江東区の清砂大橋西詰交差点までを結ぶ、全長約6.5kmの幹線道路です。この通りは、関東大震災後の帝都復興事業の一環として整備され、現在では東京の主要な交通路の一つとなっています。


「倒産通り」と呼ばれた背景

1997年の金融危機は、日本の経済に大きな影響を与えました。この時期、永代通り沿いに本社を構えていた大手金融機関が次々と破綻しました。特に有名なのは、山一證券と北海道拓殖銀行の破綻です。これらの企業の破綻により、永代通りは「倒産通り」と揶揄されるようになりました。


  • 山一證券: 1997年11月、山一證券は自主廃業を発表しました。これは戦後最大の金融破綻の一つとされ、多くの投資家や社員に影響を与えました。
  • 北海道拓殖銀行: 同じく1997年に破綻した北海道拓殖銀行は、永代通り沿いに東京本部を構えていました。この破綻もまた、日本の金融システムに大きな衝撃を与えました。


永代通りの現在

現在の永代通りは、かつての「倒産通り」という不名誉な呼び名を払拭し、再び東京の重要なビジネス街として機能しています。沿道には多くのオフィスビルや商業施設が立ち並び、日々多くの人々が行き交っています。

永代通りの歴史は、東京の経済の浮き沈みを象徴するものです。過去の教訓を活かし、現在ではより強固な経済基盤のもとで発展を続けています。

永代通りの歴史やエピソードについて、さらに詳しく知りたい方は、ぜひ現地を訪れてみてください。歴史の痕跡を感じながら、東京の今を体感できることでしょう。



栄枯盛衰:ワンルームマンションと「リースマンション」の変遷2024/11/04 21:24

1980年代、日本の不動産市場はバブル経済の影響で急成長し、特にワンルームマンションが大きな注目を集めました。その中でも、マルコー(1991年倒産)と杉山商事(港区南青山、後にイトマン傘下)は業界をリードする存在でした。

 

マルコーと杉山商事の競争

マルコーは、日本で初めて不動産投資型ワンルームマンションを導入した企業として知られています。1977年に東京都新宿区早稲田に「メゾン・ド・早稲田」をオープンし、当時のサラリーマン層を中心に人気を博しました。一方、杉山商事も同様にワンルームマンション市場で成功を収め、両社は激しい競争を繰り広げました。

 

「リースマンション」を巡る裁判

この競争は、「リースマンション」という呼称の使用権を巡って裁判にまで発展しました。どちらの企業がこの名称を使用する権利を持つのかが争点となり、法廷での激しい論争が繰り広げられました。この裁判は、当時の不動産業界に大きな影響を与え、商標や呼称の重要性を再認識させるものでした。

 

栄枯盛衰:時代とともに変わる言葉

当社も2009年頃に創業し、しばらくの間「リースマンションドットコム(leasemansion.com)」というドメインを使用していました。しかし、SEO対策としてはあまり効果がありませんでした。当時は注目されていた言葉でも、時代とともにその価値や効果が変わってしまうことを痛感しました。

 

結論

1980年代のワンルームマンションブームと「リースマンション」を巡る裁判は、日本の不動産市場に大きな変革をもたらしました。しかし、時代とともに言葉やトレンドは変わり続けます。栄枯盛衰の中で、企業は常に変化に対応し続ける必要があります。 この経験から学んだことは、過去の成功に固執せず、常に新しいトレンドや技術に目を向けることの重要性です。これからも変化を恐れず、柔軟に対応していきたいと思います。

昔はこのような輩が国会議員になれた2024/11/04 01:34

日本の政治史には、数々の波乱万丈なエピソードが存在します。その中でも特に注目すべき人物の一人が田中彰治さんです。彼の人生は、まさに「政界の爆弾男」として知られるにふさわしいものでした。

 

田中彰治とは?

田中彰治さん(1903618 - 19751128日)は、新潟県新井市(現:妙高市)出身の政治家で、自由民主党の衆議院議員を7期務めました。彼は岩倉鉄道学校を卒業後、鉄道省に勤務し、その後炭鉱経営などを経て、1949年に衆議院議員に初当選しました。

 

政界での活躍と失脚

田中さんは、決算委員長として政財界の癒着を追及する一方で、自身も恐喝や詐欺などの不正行為に関与していたことが明らかになりました。193012月には横領、恐喝、有価証券偽造・同行使、詐欺罪で懲役2年の実刑判決を受けて服役しました。1966年には吹原産業事件の捜査過程で逮捕され、その後、複数の罪で起訴されました。1974年には懲役4年の実刑判決を受けましたが、控訴中に肝硬変で亡くなりました。

 

映画「金環蝕」のモデル

田中彰治さんは、石川達三の小説を原作とした映画「金環蝕」(1975年)の登場人物の一人、神谷直吉代議士のモデルにもなっています。この映画は、九頭竜川ダム汚職事件をモデルに、保守政党の総裁選挙に端を発した汚職事件を描いており、田中さんのような政治家がどのようにして権力を握り、そして失脚していったかを描いています。

 

なぜこのような人物が国会議員になれたのか?

田中さんのような人物が国会議員になれた背景には、当時の政治風土や選挙制度の問題がありました。戦後の日本は、急速な経済成長とともに政治の世界でも大きな変革が求められていました。しかし、その過程で不正や汚職が横行し、一部の政治家はその波に乗って権力を握ることができました。田中さんのような人物が国会議員になれたことは、当時の日本の政治の一面を象徴しています。現代の私たちがこの歴史を学ぶことで、より健全な政治を目指すための教訓とすることができるでしょう。

 

政界のマッチポンプ

田中彰治さんは、決算委員長や決算委員会理事として、政財界の癒着を追及する立場にありました。しかし、彼はその職権を利用して、表向きには疑惑を追及するふりをしながら、裏では当事者から金品を脅し取るという行為を行っていました。このような行動は、火をつけて(問題を起こして)自ら消火する(解決するふりをする)という意味で「政界のマッチポンプ」と呼ばれました。

 

このように、田中彰治さんのような人物が国会議員になれた背景には、当時の政治風土や選挙制度の問題がありました。現代の私たちがこの歴史を学ぶことで、より健全な政治を目指すための教訓とすることができるでしょう。